目にいっぱいためた涙をこらえながら、言った。
「……甘えてまう」
「うん、僕には甘えとる、、やろうねぇ。
それがどうしたんね?」
「……甘えたら、あかん」
「甘えたらあかん、思うてるの?」
「うん」
「なんで?」
「……こわい。」
――入院中、主治医のC先生との会話です。
(病室の窓からの風景。ヤフードーム、シーホーク、福岡タワー、博多タワー、マリノア、福岡サンパレス。
夜になるとその手前に高速道路の光の流線型が。美しかった)
甘えるのが怖かった。
当時を知っている人も、このブログを読んでくれているので、ちょっと気恥ずかしいけれど、
わたしね、中学~高校生のころに本気で恋をしたんです。
一生懸命、真剣に恋をして、
(こういう被害者ぶった言い方は好きじゃないけれど)捨てられた。
そんなに惚れこむほど魅力的な男性だったのかって?
ううん、わるいけど違う。(笑)
わたしはただ逃げ場を求めていたんです。
逃げるようにしてのめりこんだ対象、それを喪失した。
たまたまそれが恋愛、失恋というカタチをとった。それだけ。
重要なのは、
それほどまでに強烈な耐え難い現実があったってこと。
そして、それをだれにも言えなかったってこと。
わたしはまわりの友だちや先生が思うような子じゃなかった。
裕福な家に生まれ、何不自由なく暮らしてきた、
教育熱心な親のもと、成績もトップの優等生で、
あたたかい家庭に育った“いい子”――。
それはたしかにわたしのある側面だったかもしれないけれど、
決してそれがすべてではなかった。
むしろ、正反対の現実のほうが大きくて大きくて、
わたしは押しつぶされそうになっていた。
だれにも見せられない。
だれにも話せない。
それをありのままに打ち明けた唯一の人が、
そのときの恋人だった。
わたしはそのひとにだけ、
自分の身に起きている現実を話し、
涙を見せた。
弱い自分を見せた。
でも、その恋というカンケイは
無残なカタチで終わりを迎えた。
「こわい? なにがこわいん?」
「甘えたら……甘えたら、おらんなってまう。
わたしは、自分をなくしてまう」
わたしの「弱さ」を知る唯一の存在は、
最後には、
わたしの利用価値のあるところだけを搾取して、
わたしの「弱さ」をすら利用して、
そうして、いなくなった。
わたしは“自分”を失ってしまった。
だから、こわかった……。
甘えて、自分の弱さを見せて、失うのが、こわかった。
でも、いまならわかるよ。
「甘える」ことと「依存する」こととは違う。
「愛」と「支配・服従」とは違う。
「成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。
愛は人間のなかにある能動的な力である」
と、エーリッヒ・フロム
は著書『愛するということ
』のなかで説いています。
そして、愛の能動的な性質をあらわす要素として、
「配慮」「責任」「尊敬」「和」を挙げ、
尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。
尊敬とは、その人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。
したがって尊敬には、人を利用するという意味はまったくない。
私は、愛する人が、私のためにではなく、その人自身のために、その人なりのやり方で、成長していってほしいと願う。
誰かを愛するとき、私はその人と一体感を味わうが、あくまでもありのままのその人と一体化するのであって、その人を、私の自由になるような一個の対象にするわけではない。
いうまでもなく、自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。
つまり、松葉杖の助けを借りずに自分の足で歩け、誰かを支配したり利用したりせずにすむようでなければ、人を尊敬することはできない。
自由であってはじめて人を尊敬できる。
と続けています。
「甘える」というのは、
「依存」でも「支配・服従」でもなく、
「“弱さを見せられる強さ”がある」ってこと。
そこにあるのは、
自立した人間同士の
お互いへの敬意。尊敬の念。
だから、わたしはわたしを失わない。
いまは、そんなふうに思います。
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